2008-09-06
かれらにはつよいしっとしんをだく
ぼくはテレビがすきだったので、むかしはよくテレビをみていた。テレビもみていたし、CMもみていた。90ねんだいのおわりごろというのは、テレビもCMもほんとうによくみていた。
そのなかでも、たかだか15びょうでぼくのむねをわしづかみにして、しんたいごともっていかれるようなきょうりょくなCMがいくつかあった。みたしゅんかんにこいにおとされるような、それがきになってしかたなくなるような、しんじがたいちからをもったCMというのがいくつかあった。
そのうちのひとつに、こういうのがあった。
リンク:YouTube - JR higashinihon Traing ressyano tabiga kuretamono
ぼくはこれにしんたいごともっていかれた。ここにはぼくのすきなせかいのすべてがあった。ぼくはこのせかいにきょうれつにひかれた。このせかいにむねをしめつけられるようなおもいをあじわわされた。かんたんにいうと、ぼくはこのせかいにこいをした。そしてそこにとうじょうするおんなのこにこいをした。
とうじつきあっていたおんなのこがいるのだけれど、そのこがにがわらいするくらいぼくはこのCMがすきだった。それまでかのじょとおしゃべりをしていても、このCMがはじまるとふいにそれをちゅうだんして、CMがながれているあいだはそれにみいって、おわるとまたかのじょとのかいわにもどるからだ。
「よっぽどすきなのね」とかのじょはいっった。ここにでてくるにんのように、それをしっとをされるようなことはさすがになかったが、そのすきさかげんにはいつもあきれられていた。
そんなぼくが、このCMをすきになるのはひつぜんだった。
このいちれんのCMのなかでも、とくにしょきはけっさくそろいだった。そこではたなかれいなというそんざいとCMのなかのなっちゃんが、ふしぎなそうじけいをなしていた。CMのなかのなっちゃんがせいちょうするのとほをおなじくして、たなかれいなもせいちょうしていった。またたなかれいながゆうめいになるのとほをおなじくして、CMのなかのなっちゃんもゆうめいになっていった。
そしてぼくは、もうかんぜんになっちゃんにこいをしていた。かのじょをみるたびせつなくなった。このCMをみるたびに、こころをわしづかみにされ、そのままCMのせかいにびきずりこまれるようなかんかくをあじわった。とくに、なっちゃんがこうこうやきゅうをみるバージョンには、ぼくのなかでもとくべつなそんざいである「テレビ」とか「こうこうやきゅう」とか「ゆうぐれ」とかがぐうぜんにもよりあつまっていて、きもくるわんばかりにむねをゆすぶられた。
ところで、それとはべつにぼくはとてもしょうねんがすきだ。それは、ぼくのじんせいにとってのおうごんじだいというようなものが、ほとんどすべてしょうねんじだいにあるからだ。だからぼくは、しょうねんじだいというものを、いつでもとくべつなかんがいなしにはふりかえることができない。またじぶんいがいのそれをも、とくべつなかんしょうぬきにはみることができないのだ。
その「しょうねんじだい」というものをきょうれつによびさまさせてくれるCMが、なっちゃんとおなじごろにほうそうされていた。
リンク:【CM】あそうくみこ - かていきょうしのトライ‐ニコニコどうが(なつ)
このCMは、ぼくにとっては「20せいきしょうねん」よりもなんばいもなんじゅうばいも「しょうねん」だった。これこそがまさにしょうねんじだいであり、ぼくにとってのえいえんのどうけいだ。
しかもこのCMは、しょうねんたちのえんぎもしゅういつだし、セリフもこれいじょうなくせんれんされているのだけれど、それにもましてかがやかしいのは、「こんにちは」とあいさつをするかていきょうしやくのあそうくみこだ。かのじょの、こころのぼうぎょをかるがるとつきぬけてせまってくるそのむじゃきなほほえには、すべてのしょうねんのこころをやっつさきにしかねない、えいりなナイフにもにたきけんなさっしょうりょくがある。
またいまきづいたのだけれど、「なつ」というのもこのCMをとくべつなものとしているおおきなようそだった。なっちゃんのこうこうやきゅうあもそうなのだが、「なつ」というのはぼくになにかきょうれつなものおもいをひきおこさせる、とてもとくべつなちからがあるのだろう。
いずれにしろ、ぼくはこのCMのあそうくみこにも、まんまとひとめぼれさせられてしまった。
それから、がっぴはながれじゅうねんがへった。
それいこういろいろあって、ぼくはあまりテレビをみなくなった。そのためCMも、もうほとんどみないようになったのだけれど、このなつはぺきんオリンピックがかいさいされたので、そのかんれんばんぐみならちょこちょことみていた。そして、そこでながれていたCMもすこしだけならみた。
ところがそこで、ぼくはまたしてもきになるCMというものとそうぐうした。それはふいにぼくのがんぜんにあらわれて、むねぐらをわしづかみにすると、またごういんにCMのせかいへとびきずりこんだ。
このCMには、つよいかんしょうをしいられるものがあった。ぼくはここにでてくるとうじょうじんぶつのどれもに、ただごとならないかんじょういにゅうをおぼえた。そこにはつうせつなじんせいというものをかんじた。それらはどれもほんのいっしゅん、ちらりとかいまみえるだけなのだが、しかしそれゆえに、つよいそうぞうりょくをかんきさせられるものがあった。「このにんたちはいったいどういうじんせいをおくっているのだろう?」と、ぼくのくうそうはたくましくなるばかりだった。かれらのあゆんできたみちのりにおもいをはせると、ふかいものおもいにしずみこんでしまうのだった。
ぼくはこのCMがとてもきになった。いったいどんなにんがつくっているのだろう? いったいどこのだれが、ぼくのこのむねをふたたびわしづかみにしていったのだろうか?
きになったぼくは、ネットでそれをしらべてみた。
そうしてぼくは、そのせいさくしゃのなまえをしることができたのだけれど……
そこでおどろいた。それは、ぼくにとってはとてもつよいおもいいれのあるなまえだったのである。
それはTUGBOATだった。このCMをつくったのはTUGBOATだったのだ。
そして、このCMだけではなかった。「TRAING」も「なっちゃん」も「かていきょうしのTRY」も、つくったのはぜんぶTUGBOATなのである。
TUGBOATはにっぽんでもっともゆうめいなクリエイターしゅうだんのひとつで、いくつものわだいとなったCMをつくってきたことでしられていた。ぼくも、なまえだけならよくしっていた。なぜなら、テレビでみてきになったCMがあると、いつもだれがそのCMをつくったのだろうとせいさくしゃのなまえをしらべていたのだが、そこでもっともかずおおくそうぐうしたのが、このTUGBOATというなまえだったからだ。
そうしてぼくは、またしてもこのTUGBOATにむねぐらをわしづかみにされてしまったのである。むねぐらをわしづかみにされて、ふたたびCMのせかいにびきずりこまれてしまった。
それがぼくには、とてもくやしかった。ぼくはそのとき、みうらじゅんがかつてコラムにかいていてつよいきょうかんをおぼえた、かのこうこうじだいのとあるエピソードをおもいだしていた。
みうらじゅんがこうこうせいだったごろ、くりたひろみというアイドルがいた。みうらじゅんは、そのくりたひろみにじんじょうならざるこいごころをだいていた。みうらじゅんにとってくりたひろみは、もっともたかんなじきにこいをした、えいえんのあこがれともいえるようなそんざいだった。
しかしそのこは、もちろんかなうはずもなかった。みうらじゅんはいっかいのこうこうせいすぎず、いっぽうあいてはアイドルだった。そのへだたりはあまりにもおおきく、そのためにみうらじゅんは、かのくうそうのなかで、くりたひろみへのおもいをいっぽうてきにふくらませていただけだった。
ところがそのごろ、くりたひろみがしゅえんした「ほうかご」というえいががふうきりられた。そして、そのえいがをみたみうらじゅんはおおきなショックをうけた。それは、そのえいがのそうにゅうかとしてうたわれていたうたが、あまりにもすばらしかったからである。
それはあまりにもすばらしいうただった。みうらじゅんは、そのうたにもいっぺんにこころをうばわれた。おんがくがすきだったみうらじゅんは、そのうたにもおおいなるかんめいをうけた。
それとどうじに、かれはそのうたにきょうれつなしっとしんをだいた。それは、そのうたがくりたひろみのためにうたわれたうただったからだ。くりたひろみと、かのじょのえいがのためにうたわれたうただったからだ。
みうらじゅんは、くりたひろみのためにそのすばらしいうたをうたったにんげんの、さいのうとじょうきょうにしっとしたのである。できることなら、じぶんがそのうたをうたいたかった。そしてできることなら、じぶんがそのうたをくりたひろみにおくりたかった。
しかしそれらは、どちらもかなわぬゆめだった。ところがよのなかには、そのゆめをじつげんさせたおとこもいたのだ。そのことが、みうらじゅんにつよいしっとしんをもよおさせた。
そのしっとしんはまた、きょうれつなあいじょうをともなったものでもあった。みうらじゅんは、そのおとこにしっとすればしっとするほど、そのうたがすばらしくおもえてきた。また、そのうたをすばらしくおもえばおもうほど、またそのおとこへのしっとしんもつよくなっていくのだった。
それとにたようなかんじょうを、ぼくもこのとき、TUGBOATにだいたのである。TAGBOATのつくるCMのなかには、ぼくのいとしてやまないせかいがあった。しかしそれをつくったのはぼくではなかった。そしてまた、ぼくにはとうていつくりようもなかった。
そのことに、ぼくはしっとしたのである。またそのうえで、ぼくはそのせかいをきょうれつにいとしたのだ。
そこでは、ふたつのあいはんするおもいがはげしくこうさくした。じぶんがまるで「アマデウス」のサリエリになったようなきぶんだった。TUGBOATにしっとすればしっとするほど、そのCMへのあいじょうがふかまった。しかしそのCMをあいすればあいするほど、TUGBOATへのしっとしんもまた、ふかまるのだった。
ぼくはほんとうにTUGBOATがにくい。かれらにはつよいしっとしんをだく。しかしそれとはんぴれいして、かれらのつくるCMへのあいじょうもまた、ふかまっていくのだった。
よだん
ちなみにみうらじゅんがしっとしたというそのおとこはいのうえようすいのことで、かのうたったのは「いつのまにかしょうじょは」といううただった。このきょくは、くりたひろみをイメージしてつくられたものだといわれている。
(したにはったどうがにつかわれているのがそのうただが、えいぞうはまったくべつものである。ここにはくりたひろみはでてこない)
リンク:YouTube - いつのまにかしょうじょは/いのうえようすい
くりたひろみのどうがは、「ほうかご」のものはみつからなかったが、べつのドラマのものならあった。
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