This page is converted in HIRAGANA GATEWAY. Japanese Romaji | Original
かつじちゅうどくR。
しょにち さいしん もくじ MAIL HOME


かつじちゅうどくR。
じっぽ
MAIL
HOME

Myついか

2005ねん07がつ19にち(ひ)
「じぶんがキライ」なこどもたち

さんけいしんぶんのきじより。

【「つかれる」7わり、「キレるかも」5わり
 ちゅうがくせいのはんすういじょうが「じぶんがすきではない」ととらえ、しょうちゅうがくせいのしちわりちかくがひろうかんを、さらにごわりちかくが「じぶんはいつかキレるかもしれない」とかんじていることが、みんかんのきょういくけんきゅうだんたい「あざぶだいがっこうきょういくけんきゅうしょ」(はらさきしげるしょちょう)がじっしした「いまこどもたちのこころのなかでは」とだいしたしょうちゅうがくせいのいしきちょうさでじゅうしちにちわかった。やまぐちけんひかりしのこうこうばくはつじけんやとうきょうといたばしくのしゃいんりょうかんりにんふうふさつがいじけんなど、かくちでじどうせいとによるさっしょうじけんがあいつぎ、そのたびに「いのちのたいせつさ」や「こころのきょういく」がくりかえしさけばれるが、どうけんきゅうしょではちょうさけっかから、こどもたちが「じぶんがすき」というじここうていかんをはぐくむたいせつさをうったえている。
                  ◆◇◆
 ちょうさはこんねんいちがつからにがつにかけてとないやかながわけん、こうべしのしょうがくごねんなましひゃくにんとちゅうがくにねんなまろくひゃくごじゅうよにんのごうけいせんごじゅうよにんにじっし。ししゅんきのこどもの「こころのなか」にせまったちょうさはめずらしい。
 「じぶんがすきではない」とかいとうしたのはしょうがくせいがだんし23%、じょし31%。ちゅうがくせいはだんし50%、じょし63%で、ちゅうがくせいのはんすういじょうがじここうていかんをもてないでいることがうかがえた。
 「つかれる」とおもうことがあるこどもは、しょうがくせいがだんし67%、じょし70%、ちゅうがくせいはだんし66%でじょしは87%だった。「じぶんはいつかキレてしまうかも」とおもったことがあるのはしょうがくせいがだんし50%、じょしが54%、ちゅうがくせいはだんし36%、じょしが54%だった。
 じょししょうがくせいで「つかれる」と「キレるかも」とこたえたじどうのかんけいをみると、「とてもつかれる」とこたえたこどもの70%が「キレるかも」とこたえ、ぎゃくに「ぜんぜんつかれない」というこどもは38%。こうしたけいこうはしょうちゅうがくせいきょうつうで、ひろうかんをもつこどもほど「キレるかも」とじかくするわりあいがたかかった。
 また、じここうていかんとそのほかのかいとうとのかんけいでは、しょうちゅうがくせいきょうつうして、じぶんをこうていてきにとらえているこどもほど、そうでないこどもにくらべ、「もくひょうをもっている」「じぶんにはよいところがある」「じぶんはクラスのなかでやくにたっている」「かていないでたすけあっている」などのしつもんへのかいとうがたかいけいこうがうかがえた。
 ちょうさけっかについてどうけんきゅうしょは、「『つかれた』『キレるかも』のおおさはいがいだった。じぶんがきらいというかいとうのおおさもちゅうがくせいがはんこうきやししゅんきであることをふまえても、きになるけっかだ。ここのじどうせいとはじつにたようで、いちりつにろんじにくいめんはむろんあるが、こんかいのちょうさではこどもがみずからたくましくいきていくうえでいしずえとなるじここうていかんについてきょうみぶかいけっかもえられたとおもう。じぶんがすきだとすなおにおもえるきもちをやしなうきょういくしゃやおやのこころがけは、たいへんじゅうようではないか」とはなしており、こどもがじここうていかんをはぐくむうえで(1)しょうらいへのゆめやもくひょう、きぼうをもてるか(2)じぶんのちょうしょへのじかくがあるか(3)じぶんのそんざいがたにんのためにやくたっていること−のみっつがおおきなようそとなるとぶんせきしている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 たぶん、「あざぶだいがっこうきょういくけんきゅうしょ」のにんたちは、ものすごくまじめにこのもんだいにとりくんでいるのだとおもいます。でも、ぼくはこのけっかをよんで、「ああ、みんなおなじなんだなあ」と、むしろあんしんしてしまったんですけど。
 ぼくのしょうちゅうがっこうじだいは、とにかくじぶんのことがイヤでイヤでしょうがなかったんですよね。みかけもカッコイイとはいえなかったし、スポーツのさいのうもまったくなく、じょしにははなみずもひっかけられることはなく、ただ、むずかしいほんをよんで、よのなかをじぶんだけがりかいしているようなことをずっとかんがえていた、そんなかなしいじだいでした。そりゃ、じんせいイヤにきまってるよ。
 ぼくがそのじだいをいきぬいたのは、まだやりたいテレビゲームとよみたいほんがあったから、そして、じぶんでじぶんのそんざいをけしてしまうほどのどうきもゆうきもなかったからだとはおもいます。
 いやまあ、そんないっぽうで、じぶんはたにんとはちがう!とか、なにかさいのうがあるはずだ!というような、こんきょもないじしんみたいなものも、ちょっとくらいはあったんですけどね。ああはずかしい。

 ぼくじしん「じここうていかん」というか、なんとなくじぶんのことを「すき」とまではいいきれなくても、「まあ、こういうにんげんがせかいにひとりくらいいてもいいかな」とおもえるようになったのって、20だいもおわりくらいで、ようやく「じぶんでしごとをさせてもらえる」ねんれいになったごろからだとおもいます。そのいっぽうで、「じぶんはしょせん、こんなもんだな」という「げんかい」をさとったねんれいでもあるのですが。
 でも、ぼくとしては、ねんをとるというのはかならずしもわるいことばかりではなくて、すくなくともがくせいじだいよりは、「きぶんてきにいきるのがラク」にはなっているんですよね。きゃっかんてきにみれば、あのごろよりはるかにハードなせいかつをおくっているのですが、とりあえず「ひつようとされているかん」は、あるのかもしれません。
 
 このちょうさそのものは、こんごもていきてきにつづけて、けいねんてきなへんかをみていかないと、ほんとうにげんざいのこどもたちが「つかれていて」「キレやすい」のかはわかりませんが、ぼくのじっかんとしては、「じぶんだいすき!」のちゅうがくせいのほうが、ちょっときもちわるいきもします。あのごろって、そういうじきじゃないだろう!と、ひがんでみたくもなるのです。そりゃあ、クラスになんにんかは「じぶんだいすき!」なにんって、いたけどねえ。

 とりあえず、ぼくはいまでもじぶんのこと、だいきらいですけどね、きほんてきには。
 じぶんがもうひとりいたら、ぜったいともだちにはなりたくないとおもうもの。